日语近义词区分

2024-12-18

日语近义词区分(共3篇)

1.日语近义词区分 篇一

一、ば たら と なら这四个假定的用法如何能理解的更好,如何能正确运用?

ば と 后面不能接过去式 就是不能出现た形,特别是 ば。たら なら 两个可以互换的,意思没有太大的区别!と 比较特别!一般说的是 前后的直接的因果关系 前后相继的关系,关系比较紧,像什么自然规律之类的 只能用 と。口语多是 たら なら ば 是不用 的但我们的习惯是喜欢说 と,就像我说的,と 太直接,太紧了,关系上,说话显得很死板,没有商量的余地!除非你是警告对方这样做的严重后果时,可以用 と。目的是警告 告诫对方!

二、「~から~まで」和「~か ら~にかけて」

以上两个句型都可以作为句子的状语来使用。而「~から~まで」除了作状语使用外,还可以用「~から~までだ」作谓语,用「~から~までの」作定语;而「~か ら~にかけて」则不能作其他成分使用。因此我们在辨析这两个句型时,只说明它们作状语的情况,它们都翻译成中文的“从„„到„„”,但是意义却不同。

1、「~から~まで」

「から」、「まで」都是接在表示空间、时间的名词、数词下面,表示空间、时间的起止,即从某一空间到另一空间,某一时间到另一时间。它的特点是:

① 强调“自„„到„„为止”。

② ②表示空间时,一般是一条线;表示时间时强调谓语动作的肯定或否定的继续。都相当于汉语的“从„„到„„”。例如:

○北京から東京までは、五時間しかかからなかった。

○ 七月二十日から八月三十日までは、私は学校にいなかった。○ 昨夜八時から十時まで、私はテレビを見ていた

「~から~まで」除了表示空间、时间的起止外,还可以表示其他事、物的起止。

例如:

○ 昨日は第五ページから二十ページまで読んだ。○ 一番から十番までは一組だ。

2、「~から~にかけて」 该句型也接在表示空间、时间的名词、数词下面,表示从某一地点到另一地点或某一时间到另一时间一直都是如何如何。它与「~から~まで」不同:

① 它强调两者之间的整个范围,因此用于空间时含有这一带的意思,用于时间时则有整个这一时间段的意思。

② 用于空间时,表示较广泛的一片,而不是一条线;用于时间时,谓语里的动作,一般是断断续续或相继发生,而不是一直不停。

③ 另外它也很少用于空间时间以外的其他方面。也相当于汉语的“从„„到„„”。例如:

○ 奈良から京都にかけて、見物して歩いた。○ 秋から冬にかけて晴れた日が多い。

○ 六月から九月にかけて、あそこはときどき台風に見舞われる。

これ/それ/あれ/どれ的正确使用

作者:北京未名天日语培训学校 来源:未名天日语 时间:2012-08-22

一、根据说话人和听话人所处的位置和立场,来判断“这个”或“那个”。

1、当说话人和听话人处于不同位置或立场时: これ:指距离说话人近的事物或人。

それ:指距离听话人近而距离说话人远的事物或人。あれ:指距离听话人和说话人都远的事物或人。

对方用「これ」问,要用「それ」回答;对方用「それ」问,要用「これ」回答;对方用「あれ」问,要用「あれ」回答。

①これは本(ほん)ですか。这是书吗?はい、それは本(ほん)です。是的,那是书。

いいえ、それは本(ほん)ではありません。不,那不是书。

②それは本(ほん)ですか。那是书吗? はい、これは本(ほん)です。是的,这是书。

いいえ、これは本(ほん)ではありません。不,这不是书。③あれは本(ほん)ですか。那是书吗?

はい、あれは本(ほん)です。是的,那是书。いいえ、あれは本(ほん)ではありません。不,那不是书。

2、当说话人和听话人处于相同位置或立场时: これ:指距离两人都近的事物或人。それ:指距离两人较近的事物或人。あれ:指距离两人都远的事物或人。

对方用「これ」问,要用「これ」回答;对方用「それ」问,要用「それ」回答;对方用「あれ」问,要用「あれ」回答。

①これは本(ほん)ですか。这是书吗? はい、これは本(ほん)です。是的,这是书。いいえ、これは本(ほん)ではありません。不,这不是书。

②それは本(ほん)ですか。那是书吗? はい、それは本(ほん)です。是的,那是书。いいえ、それは本(ほん)ではありません。不,那不是书。

③あれは本(ほん)ですか。那是书吗? はい、あれは本(ほん)です。是的,那是书。いいえ、あれは本(ほん)ではありません。

不,那不是书。

二、所指代的事物可以是具体事物,也可以是抽象事物。①それは車(くるま)です。那是汽车。(具体事物)②それは嘘(うそ)です。那是撒谎。(抽象事物)③それは夢(ゆめ)です。那梦想。(抽象事物)

④それは私(わたし)の理想(りそう)です。那是我的理想。(抽象事物)⑤これはわたしの考(かんが)えです。这是我的想法。(抽象事物)

三、可以转作人称代词,一般多用来指照片、图像、屏幕上的人。如当面指称则带有不重视或轻蔑的语气。

①これは母(はは)です。

这是我母亲。(指着照片)

②あれは高先生(こうせんせい)ですか。那是高老师吗?(指着屏幕)③あれは王(おう)さんじゃないか。那不是小王吗?(指着屏幕)

四、「どれ」是疑问代词,意思是“哪一个”。作为主语提问时,后面必须用助词「が」,回答时主语后面也必须用助词「が」。

1、日本(にほん)の地図(ちず)はどれですか。日本地图是哪个? 日本(にほん)の地図(ちず)はあれです。

日本地图是那个。

2、私(わたし)の靴(くつ)はどれですか。

我的鞋是哪一双?

3、どれが私(わたし)の靴(くつ)ですか。

哪双是我的鞋? あれがあなたの靴(くつ)です。

那双是你的鞋。この、その、あの、どの 表达的意思和距离和上面的一样。只是他们的连体词,就是后面要加名词使用。比如その服は谁のですか。

こ/そ/あ/ど系的其它表现: これ/それ/あれ/どれ 人和物 この/その/あの/どの 物 ここ/そこ/あそこ/どこ 地点

こちら/そちら/あちら/どちら 方向和人物 こっち/そっち/あっち/どっち(口语)

「準備」和「用意」「支度」用法辨析

汉语的「准备」一词译成日语时可以用「準備」、「用意」和「支度」等词语来表达,其用法、含义有相同之处,都可以表示为做某事而事先做准备,但其侧重略有不同,用法也有细微差异。现就这三个词的用法、含义及其差异通过较多的实际用例,加以分析、归纳,供日语学习者参考。

1、「準備」主要表示精神性、体力性等方面的准备,或表示长期有阶段性地推进比较大规模的事物的准备,多用于表示为了开始实际的行动,需要做很多花时间、精力的事情。

① 来客のために部屋を準備する。/为客人准备房间。

② 防寒の準備をする。/做越冬的准备。

③ 運動会の準備が整った。/运动会的准备工作就绪了。

④ 政府は今鉄鋼企業の改革の準備をしているそうだ。/据说政府正在进行钢铁企业改革的准备。

2、「用意」多用于物质方面的准备,表示结束准备阶段,使之成为立即可以开始的状态,并表示已具备以防万一时必需的条件、形势。

① 客をもてなすためにおいしい酒と料理を用意する。/为了款待客人准备了好酒好菜。

② 会議に資料を用意する。/为会议准备资料。

③ 五人前の食事を用意する。/准备五人份的饭。④ 失業者を受け入れる用意がある。/有接纳失业者的准备。

3、「支度」为稍微口语化的表现,使用范围较窄,主要用于象「身支度、冬支度、旅支度、嫁入り支度、心支度」等与平时的衣、食、住、行等有关的具体事项的准备。

① 彼女は外出の支度に時間がかかる。/她花了很长时间准备外出。

② 野菜を買い込んで冬支度をする。/买回来一些蔬菜,准备过冬。

③ 食事の支度ができましたから、席についてください。/饭菜已经准备好了,请入席。

④ 寝る支度をする。/准备睡觉。

小结

尽管这三个词的用法非常相似,在很多情况下可以互换使用,但其有大致如下区别。

「支度」主要用于能够具体列举出的事物,比如像衣服、食物等事物的准备;

「用意」经常用于物质性的场合;

「準備」则倾向用于精神性的场合。

「せっかく」和「わざわざ」的区别

「せっかく」と「わざわざ」の教え方、とても難しいですね。違いをどう教えたらいいか„„、日本語教師養成講座の卒業生からこんな質問を受けた。確かにこの二つは同じような用法もあるし、全く異なる用法もあるので日本語学習者にしてみればかなりややこしい。でも我々日本人はそんなことほとんど意識せず何気なく使いこなしているのだが„„。“せっかく”和“わざわざ”两个词,要想讲明白很难。怎么告诉学生它们的区别呢,日语教师养成讲座的一个毕业生问我。这两个词有相同的用法,也有完全相异的用法,在日语学习者看来,是很复杂的。但是我们日本人却没怎么在意地运用自如。

「(せっかく・わざわざ)ウィスラーまで来たのだから、スキーをしよう」。この文では「せっかく」も「わざわざ」も両方使える。でも日本人はこの二つのニュアンスの違いは容易に分かるのだが、その違いを説明するとなると確かに難しい。

“(せっかく・わざわざ)ウィスラーまで来たのだから、スキーをしよう”(难得来惠斯勒加拿大滑雪胜地,去滑雪吧)。这句话中,“せっかく”和“わざわざ”两者都能使用。日本人能很容易地分别两者的微妙差异,要想解释出来就很难了。

「せっかく」は努力してウィスラーまで来たのだからそのチャンスにすばらしいこと(スキー)をしようよ。そんな感じである。そして「わざわざ」は(遠いところ時間をかけて特別に)ウィスラーまで来たのだからスキーをしなければ損だよ。こんなニュアンスの違いであろうか。

“せっかく”表示经过努力来到了惠斯勒,所以不要错过这次机会去滑雪吧。而“わざわざ”是从很远的地方花费很多时间特别来到惠斯勒,不去滑雪就亏了。两者有这样微妙的差异。

「せっかく覚えたのに試験に出なかった」はとても残念な気持ちであり、「わざわざ覚えたのに試験に出なかった」はとても腹立たしい気持ち、いわゆる話し手の気持ちの違いであろう。

“好不容易背下来的,结果考试没考”表达很遗憾的心情,“特意记下来的,结果考试没考”表示非常生气的心情,两者表示的说话者的心情是不一样的。

また「せっかく」の漢字は「折角」てある。なぜ角を折るのか„„。これは中国の故事からきており、当初の意味は「骨を折ること・力を尽くすこと」の意味とのこと。古くは「せっかく勉学に励みます」のような使い方をしていたようである。

“せっかく”的汉字是“折角”。为什么要把角折起来呢„„。这来源于中国的故事,当初的意思是“尽力、卖力”的意思。“せっかく勉学に励みます”(努力学习)过去好像曾这样使用。

一般的には敬語表現の「せっかくお越しいただきましたのに留守をして申し訳ございません」など相手の行為に用いると申し訳なさが強調されて効果的である。また、「せっかくの休日」などのようにそのものを大切にする気持ちを表す用法もある。

在一般的敬语表达中,像“难得(せっかく)您过来一趟,我却不在家,真不好意思”这样,用在对方的行为上,有强调抱歉心情的效果。另外,像“难得的假日”这样,也可以表示珍惜某种事物的心情。

一方「わざわざ」の漢字は「態態」である。こんな漢字を知っている方はごくまれであろう。なぜこんな漢字を書くのかよく分からないが、辞書にちゃんと載っている。でも一般的にはひらがなで書くほうが無難であろう。

另一方面,“わざわざ”的汉字是“態態”。知道这个汉字写法的人非常少。虽然不太清楚为什么汉字这样写,但字典上有记载。一般还是写作平假名比较好。

この「わざわざ」は日本人としてもいろいろ大変である。特に相手の行為に使う場合は要注意である。例えば「雨の中、わざわざお越しくださいまして„„」、この表現は取りようによっては「こんな大雨の中、来なくてもいいのに„„」、こんな意味にもなってしまう恐れがある。

这个“わざわざ”对于日本人来说也麻烦。特别是使用在对方的行为上时,要特别注意。例如“下着雨,您还特意(わざわざ)过来„„”,这个表达方式根据听话人的不同感受,也可能被理解成“下这么大雨,你不来也可以的„„”。

この「わざわざ」は「その事だけのために特別にする行為」と「しなくてもいい事を故意にする行為」の二つの意味があるのでややこしい。確かに相手の行為を表現する場合は「わざわざ」をわざわざ使う必要はないのかも„„。

“わざわざ”有“单独为了这件事,特别做出的行为”和“这个行为不用做也可以的,却故意做了”这两种意思,所以很麻烦。可能也没必要特意在对方的行为表达上用“わざわざ”。「先生、せっかくのお休みにわざわざ日本語の授業をしていただきありがとうございました」生徒からこんなメールをもらったら„„、確かに素直に喜べない感じがする。我从学生那儿收到了这样的短信„„“老师,好不容易才有的假期,您还特意过来教我日语,真是太谢谢了”。看到这句话,老实说,我一点都不高兴。

“一”什么时候读“いち”什么时候读“ひと”?

日本語教育において漢字を教えるのはいろいろ大変である。多くの学習者は漢字を見ただけで拒絶反応を示す。そんな生徒にいかに漢字を楽しく学ばせるか„„。しかし中には漢字が大好きな学習者もおり教師として何となくホットするのだが、そんな生徒に限って漢字に関する厄介な質問をしてくるので困ってしまう。先日もやや冗談交じりに「先生、週は先週、今週、来週ですよね。月も先月、今月、来月ですから、年も先年、今年、来年のほうがいいのでは„„」である。

日语教学中,汉字的教学过程是很辛苦的。很多学习者一看到汉字,就会条件反射性地拒绝。怎样让这些学生快乐地学习汉字呢„„。其中也有些学生喜欢汉字,让老师比较放心,他们经常会提问一些关于汉字的很麻烦的问题,让老师很为难。前些日子,学生半开玩笑地跟我说,“老师,星期的表达是“先週、今週、来週”,月份是“先月、今月、来月”,那么年份也说成“先年、今年、来年”不是挺好吗„„”。

最初は何を言っているのかよく分からなかったが、確かに漢字から判断すれば先週、先月であれば先年である。しかしどうして「先年」と言わず「去年」というのか„„。上のルールを当てはめると漢字的には「先年」のほうが確かに理にかなっている感じが„„。こんなこと我々日本人は考えてみたこともないのだが„„困ってしまった。

一开始我还不太明白他说的是什么意思,确实,根据汉字来判断的话,既然有“先週”、“先月”,应该也有“先年”。但是为什么不说“先年”而说“去年”呢„„。“先年”根据上面的推断,在汉字上是比较符合理论依据的。这种问题日本人根本就没考虑过,真让人为难。

そしてもっと困った質問がやってきた。表題の「先日」である。「先週」がすぐ前の週、「先月」がすぐ前の月なら「先日」はすぐ前の日ですよね。どうして日には「先日、今日、来日」の漢字を使わないんですか。そのほうが分かりやすいのに„„。うーん。参ってしまった。日は「昨日、今日、明日」である。どうしてと言われても困るのだが„„。もちろん日本人は「先日」は「昨日」の意味には使わない。まして「来日」などは全く別の意味の「日本に来ること」になってしまう。でも来週、来月はちゃんと次の週、次の月の意味に使っているのに„„。確かに漢字に興味のある学習者は特に混乱してしまいがちである。然后最让人头疼的问题来了,就是题目中的“先日”。“先週”是指上一周,“先月”是上一个月,那么“先日”是指前一天吗。为什么日期上不用“先日、今日、来日”的汉字呢,明明这样比较容易明白„„。唉,我真要投降了。日期应该是“昨日、今日、明日”。你要问为什么我也很难解释清楚„„。当然,日本人不会把“先日”当做“昨日”使用,甚至“来日”也完全是其他意思,表示“来到日本”。但是,来週、来月却在表示下一周,下个月的意思。这让对汉字感兴趣的学习者产生了混乱。

また漢字の読み方もややこしい„„。漢字を習い始めの頃よく出る質問に「一」の読み方がある。例えば「一人」と「一名」である。日本人は自然に「一人」は「ひとり」で「一名」は「いちめい」とちゃんと読めるが確かに学習者にはややこしい。覚えてもらうしかないのだが„„。しかし日本人にとってもこの「一」に関して結構判断が難しいものもある。例えば「一段落」である。会話において「一段落したらお茶にしましょう」などと使うが、この場合「いちだんらく」かそれとも「ひとだんらく」か„„。日本人に尋ねてみると「ひとだんらく」と言っている人のほうが多いような気がする。どっちでもいいと思うのだが„„、でも辞書には必ず「いちだんらく」となっており「ひとだんらく」は出ていない。どうも 「いちだんらく」が正解である。でもどうして„„。

另外汉字的读法也很复杂。刚学汉字的时候,经常会问的一个问题就是“一”的读法。比如“一人”和“一名”,日本人很自然地就读作“ひとり”和“いちめい”,对于学习者来说却很复杂,只能硬记下来„„。但是对日本人来说,“一”的用法也是很难判断的。例如“一段落”。在会话中会说“一段落したらお茶にしましょう”(工作告一段落后喝点茶吧),这时要读作“いちだんらく”还是“ひとだんらく”呢。询问日本人的话,貌似是读作“ひとだんらく”的人比较多。虽然我觉得哪种都行,但字典上出来的是“いちだんらく”,“ひとだんらく”查不到。“いちだんらく”是正确说法,但是为什么这样呢„„。確かに何となく違いは感じる。「一安心」や「一工夫」は「ひとあんしん」などと「ひと」と読んでいるが、「一芸」や「一面識」は「いちげい」などと「いち」を使っている。我々は何となく使い分けているのである。こんな説明をしている。「安心する」や「工夫する」ような動作を表すような言葉が後に来る場合は「ひと」を使い、後に「芸」や「面識」など動きを感じない言葉の場合は「いち」を用いる。するとやはり「一段落」は「いちだんらく」のほうが良さそうである。事実両方使える「一押し」などはその違いがよく分かる。「いちおし」と「ひとおし」の使い分けである。生徒には「一押し(いちおし)のこの教科書を使って、もう一押し(ひとおし)日本語の勉強頑張って„„」と教えたいのだが„„。确实觉得是有些差异存在的。“一安心”和“一工夫”读作“ひとあんしん”和“ひとくふう”,“一芸”和“一面識”就读作“いちげい”和“いちめんしき”。日本人凭感觉就能区分使用。有这样一种解释,像“安心する”和“工夫する”这样,“一”后面接表示动作的词语时,读作“ひと”,后面是“芸”、“面識”等感觉不到动作的词语时,读作“いち”。于是乎“一段落”就读作“いちだんらく”比较好。而有两种读法的“一押し”等词语,这种区别就很明显了。分“いちおし”和“ひとおし”两种读法在使用。我想告诉学生,“你们使用着最好的教科书,加把劲儿学日语吧”。

寿司三种写法「鮓」「鮨」「寿司」的区别

日本語学習者にとって漢字の勉強はとても大変で嫌なものである。多くの学習者は避けたいと思っているが、日本語に漢字はどうしても必要であり、日本語教師としては頑張ってもらわなければならない。

对汉语圈以外的日语学习者来说,汉字的学习是件很辛苦、不情愿的事情。很多学习者想避开它,但汉字对日语来说又是不可或缺的。作为日语教师的我只能希望大家多多用功。でも中には漢字が大好きな生徒もいる。先日そんな生徒から質問を受けた。「油断」という漢字はどうして「油」という漢字を使うんですか„„である。うーん、これには参ってしまった。今までそんなこと考えたこともないし、質問されたこともない。全く見当もつかず、ごめんなさいと謝って、早速辞書を調べた。

但是,也有非常喜欢汉字的学生。前些天,一个学生问了我这样的问题,“「油断」这个词为什么用「油」这个汉字呢„„”。呃,真服了他了。一直以来想都没想过这个问题,也没被问到过。由于我完全不清楚,只能对学生说对不起,然后马上回去查词典。そしてとても気になったので、何人かの日本人に聞いてみた。油は滑りやすいから„„とか、「油を売る」と関係あるのでは„„など、いろいろ珍説も出たが、誰も「油断」の語源を真剣に考えたことなどない。でもそう言われてみると確かになぜ「油」が出てくるのか、ものすごく気になるのも事実である。

因为很在意这个问题,于是我询问了几个日本人。答案千奇百怪,有的说因为油很滑,有的说或许跟「油を売る」(工作时偷懒)有关,但没人认真地考虑过「油断」这个词的语源。「油断」到底为什么会用「油」这个汉字呢,真的很在意这个问题。

いろいろな説があるようだが、一説には王が下臣に油を持たせて歩かせ、一滴でもこぼしたら命を断つと命じた。この故事の「注意を怠って油をこぼしたら命を断つ」というのが「油断」の語源となっているとのこと。なるほど。ほかにも説があり定かではないが、なかなか面白い。でも生徒にはそのようなことはあまり気にせず勉強して„„と言いたいところである。

貌似有很多说法。一种说法是,国王命令大臣端着油走路,如果有一滴洒出来就要杀了他。这个故事中的「注意を怠って油をこぼしたら命を断つ」(不注意让油洒出来的话就断了生路)是「油断」的语源。原来如此。其他还有很多说法,虽然不能确定,但很有意思。但是我想对学生说,别太在意这种问题,只管学习就行了。

そしてそのような漢字大好きな生徒たちと和食レストランに行った時によく話題に出るのが「すし」の漢字である。確かに三つの漢字がある。「鮓」「鮨」「寿司」であるが、その使い分けはどうなのか„„、確かにややこしい。そんなことどうでもいいことだが、漢字が好きな上級者に対しては日本語教師としてちょっと意識しなければならない。我跟那些很喜欢汉字的学生一起去和式餐厅时,经常会讨论的话题是「すし」的汉字。有三种汉字写法——「鮓」「鮨」「寿司」。怎样区别使用呢,确实很麻烦。虽然这是无所谓的事情,但面对那些喜欢汉字的学习者,作为日语教师的我必须有一定认识。

まず「すし」は形容詞、酸っぱいの「酸(す)し」から来ていると言われている。そして「鮓」の漢字は現在ほとんど使われておらず、あえて生徒に教える必要はないと思うが、「鮨」と「寿司」はよく見かけるので、その違いは上級者にとってとても気になる。

首先,「すし」由形容词「酸っぱい」(酸味)的「酸(す)し」(古语形容词)而来。而「鮓」的汉字现在基本上不使用了,没必要告诉学生。「鮨」和「寿司」这两种写法经常能看到,它们的区别也是日语进阶者很在意的。

「鮨」は昔から使われてきた漢字で、魚を旨く食べる„„、当然「魚」と深い関係がある。一方「寿司」であるが、お祝いの席に「すし」がもてはやされ、「寿を司(つかさど)る」ということになり、「すし」の「当て字」として江戸末期から使い始めたらしい。ひょっとすると縁起を担いだ当時の若者言葉だったのかもしれない。

「鮨」是很久以前就使用的汉字,“很美味地吃鱼”„„,当然跟「魚」有很深的关系。另一方面,「寿司」是由于在祝贺的酒席上,「すし」被大家极力称赞,认为是“掌管寿命”的事物,所以就作为「すし」的假借字从江户末期开始使用。或许这是当时迷信吉凶兆头的年轻人用语。

そして明治以降「寿司」が一般的に使われるようになり、確かに魚に関係ない「いなり」などは「いなり寿司」がふさわしい。でもやはり「寿司屋」より「鮨屋」のほうが高そうな感じが„„。

明治以后「寿司」被普遍使用,比如和鱼没有关系的油炸豆腐寿司等,写成「いなり寿司」比较贴切。但我总觉得「鮨屋」比「寿司屋」更昂贵。日本助六寿司的由来

上級者になると漢字に関して油断ならない生徒もいる。たまには回転寿司でもご馳走しなければ„„日本語教師もいろいろ大変である。

有的学生成为日语进阶者后对汉字很在意。偶尔我会请他们去吃回转寿司„„当日语老师也很辛苦啊。

日本读作「にほん」还是「にっぽん」?

日本語教師としてとても困る質問の一つに「日本」の正しい読み方は「にほん」か「にっぽん」かどちらですか„である。うーん、確かに困ってしまう。基本的にはどちらでもいいですよであるが、「日本語」は「にほんご」と教えているので日本語教師としてはやはり「にほん」のほうが主流である。

作为日语教师很头疼的一个问题是,「日本」的正确读法是「にほん」还是「にっぽん」呢„„。嗯,确实很难区分。基本上来说两者都可以用,但作为一名日语教师,一直教大家「日本語」=「にほんご」,果然「にほん」的发音才是主流。

でも確かに両方とも使われているので日本語学習者にとってこの使い分けはとてもややこしい。あまりそんなこと気にしなくていいですよ„であるが、上級者になると国名が二つあるのはおかしいですよね、正式にはどちらですか„と鋭い質問をしてくる。但这两个发音又确实都在使用,对于日语学习者来说,这个区分还是比较麻烦的。虽然不必过分纠结于这件事,但一旦日语进阶到高级,学生就会提出这种尖锐的问题——国名有两种读法很奇怪,到底正式说法是哪个呢?

我々日本人はこんなことあまり気にしていないが、使い分けているのも事実である。子供のころ「日本人」は「にほんじん」、でも「富士は日本一の山」は「にっぽんいち」と教わったような気がする。歴史を調べてみると「にほん」と「にっぽん」の両方の読み方はなんと奈良、平安時代から始まったようで、それが現在までずっと続いており、昭和初期に「にっぽん」に統一しようとする動きがあったとされているが、法的制定には至らなかった。

日本人不太在意这种问题,但在区别使用也是事实。孩童时代就被告诉「日本人」念「にほんじん」,「富士は日本一の山」读作「にっぽんいち」。我试着查了下历史记录,「にほん」和「にっぽん」两种读法均是从奈良、平安时代开始一直持续到现在的,昭和初期有统一成「にっぽん」的动向,但最终没有依法制定。

そして2009年6月に「両方とも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を決定した。要するに政府として「にほん」も「にっぽん」もどちらでもよろしい、と初めて正式に閣議決定したのである。日本語教師としてはとても画期的な正式決定である。

2009年6月某答辩书通过决议——“两者都被广泛使用,所以没有必要统一成一种说法”。总言之就是说,日本第一次正式通过内阁会议决定,作为政府名称「にほん」和「にっぽん」两者都能使用。对日语教师来说这个正式决定也具有划时代的意义。

確かに日本人は昔から両方をうまく使い分けてきたのだからいまさら一つに決める必要はなく、この決定は至極当然であろう。日本語教師としても今まではちょっと声を小さめに「どっちでもいいですよ„」であったが、これからは声を大にして「にほん」も「にっぽん」もどちらも正しいですよと言えるのだからとても教えやすくなった。

确实,日本人从很早开始就能把这两种读法很好地区分使用,没必要到现在再统一成一种说法,这个决定是很理所当然的。作为日语教师之前只能底气不足地说“两者都可以使用„„”,但今后可以大声地告诉学生「にほん」和「にっぽん」两个都正确。所以再回答这个问题就简单多了。

この決定を上級者に話すとすかさず日本の国名もどちらでもいいのですか„。日本のお札には「NIPPON」と書かれているので「にっぽん」が正式だと思っていましたが„、どちらかに決めたほうがいいのでは、とちょっとけげんな顔をした。いかにも日本らしいあいまいな決定と思えたのであろう„。

我把这个官方决定告诉了学生后,学生马上露出诧异的表情问到“日本的国名也是两种读法都行吗„„。在日本的纸币上写着「NIPPON」,所以之前觉得「にっぽん」是正式说法呢。决定一个正式说法不是比较好吗”。这个暧昧的决定实在是像日本的作风„„。国名に関していろいろな方に聞いてみるとやはり多くの方は「にほん」である。でも年配の方には「にっぽん」のほうがしっくりくると„、確かに世代によってもかなり異なっているようである。

关于国名的问题,我咨询了很多人。多数人还是认为「にほん」比较常用,但是一些年长者认为「にっぽん」比较合适。确实不同年龄段的人有很大差异。

ではその使い分けをどう説明するのか。有名なところでは「日本橋」である。東京はであり、大阪は「にっぽんばし」である。これは固有名詞であるから覚えればいいのだが„。もちろん個人差や方言などにもよるが、「日本酒」などは何となく「にほん」のほうが落ち着く感じがする。でも「日本代表」となると「にっぽん」と発音したくなるし、ましてスポーツの応援などは「にっぽん」のほうが気合が入る。確かに使い分けている。

但是两种名称该如何区别使用呢。有个有名的地方叫「日本橋」。东京人叫它「にほんばし」,大阪人叫它「にっぽんばし」。这是个专有名词所以记住就行了„„。当然也有个人差别或方言上的不同,「日本酒」总觉得读作「にほん」比较协调,到了「日本代表」,不由自主的就想读成「にっぽん」。况且在体育比赛的应援中,「にっぽん」的发音比较有气势。两种读法像这样在被人们区分使用着。

これからは「日本晴れ」などもその日の気分で「にっぽ」と「にほん」を使い分けていいですよ、と堂々と言えるので、日本語教師とすれば大助かりである。

今后我可以堂堂正正的告诉学生,说到「日本晴れ」等词的时候可以根据当天的心情区别使用「にっぽ」和「にほん」。这对日语教师来说真是帮了大忙了。

为什么可以说「お昼」而不说「お朝」? 今年初めての授業が終わったあと、お昼を食べに行こうということになり、近くのレストランに出かけた。そして上級者の彼は少しにやにやしながらこんなことを言い出した。「先生、どうして昼だけ『お』がつくんですか„」である。最初は何のことだかよく分からなかったが„、なぜ「お昼」はいいのに「お朝」や「お夜」はダメなのか、である。

今年第一次课程结束之后,去附近的一个餐厅吃午饭。一个高年级学生暗笑着问我,“老师,为什么只有昼前加「お」呢”。最开始不明白他问的是什么意思。原来是为什么「お昼」可以,「お朝」或「お夜」就不行呢。

長年日本語教師をしているが、この質問は始めてである。うーん„、そんなこと当たり前のことで考えたこともなかった。でも確かに「お昼」は使うが「お朝」や「お夜」は使わない。でも改めてなぜと聞かれると誠に困ってしまった。

虽然做很多年日语教师了,但这个问题还是第一次遇到。嗯,一直以为这样说是理所当然的,没有考虑过为什么。确实,「お昼」可以用,却没有人说「お朝」或「お夜」。被问到为什么时还真是让人头疼。

初級では「お金」や「お荷物」などのように「お」をつけると丁寧な言い方になると教えている。そしてこの「お」を付けることに関して、日本語学習者ならではのいろいろ面白い話がある。

初级日语教学时曾告诉学生像「お金」或「お荷物」这样单词前加「お」是礼貌用法。而关于单词前加「お」的问题,闹了许多日语学习者独有的笑话。

ひとつの例として日本語中級レベルの生徒だった日系3世のスチュワーデスがお客さんに「前の荷物を„」と言おうとして「お前の荷物を„」と言ってしまった。また外国の人が夜遅く電話をしたとき「夜分、すみません」を丁寧に言おうとして「夜分」に「お」をつけてしまった„などなどである。

举一个例子,日语中级水平的学生日裔第三代的一位空乘,本想对乘客说「前の荷物を„(前面的行李)」结果说成了「お前の荷物を„(你小子的行李)」。还有一个外国人,深夜打来电话想尊敬地说「夜分、すみません(深夜多有打扰)」结果在「夜分」前加了「お」等(注:「親分(おやぶん)」是指老板、头儿)。

確かに初級に「朝、昼、夜」と習ったのだから丁寧に言おうとしたら「お朝、お昼、お夜」であろう。でも確かに「お朝」や「お夜」とは言わない。でもなぜ„。言わないのだから言わないのと言いたいところだが„、やはり日本語の文化である「内」と「外」が絡んでいるのであろう。基本的に朝と夜は「内」である家族と一緒にいる時間であり、取り立てて丁寧な言い方は必要ない。しかし昼は「外」の人と会うことが多く、丁寧な言い方である「お昼」が必要であり、どんどん馴染んできたのであろう。

确实,因为初级学了「朝、昼、夜」,礼貌来说的话大概就是「お朝、お昼、お夜」。但其实没有人会说「お朝」、「お夜」什么的。为什么呢。真想对学生解释因为不这么说所以不这么说„说到底还是和日语文化的「内」和「外」密切相关。基本上早晨和晚上是和「内」(自己人)的家人一起度过的时间。没必要用特别礼貌的语言。但是白天基本上是和「外」的人见面,要使用礼貌用语的「お昼」,于是渐渐成了习惯用法。

そしてよく問題になるのが「夕ごはん」と「晩ごはん」そして「夜ごはん」の違いである。生徒からよく「夜ごはん」はダメですかと聞かれる。確かに「夜ごはん」は辞書には出ていない。そして漢語では「朝食」「昼食」「夕食」であり、「夜食」というと少し意味が変ってしまう。やはり「夕」の付いた「夕ごはん」が一番使われている。

经常出问题的还有「夕ごはん」、「晩ごはん」和「夜ごはん」的区别。学生经常问用「夜ごはん」不行吗。确实字典上是没有「夜ごはん」的。还有汉语词「朝食」「昼食」「夕食」,「夜食」的话意思有稍许变化。最常用的还是加了「夕」的「夕ごはん」。

「夕」は夕日が沈むころであり、「晩」は日が沈んで辺りが暗くなりかけのころ、そして「夜」は完全に暗くってからである。電気など無い時代はなるべく明るいうちに食べなければならず、「夕ごはん」がふさわしかったのであろう。でも生活がどんどん夜型になってきた現代では「夜ごはん」のほうがふさわしい感じがする。やはり言葉も時代とともにどんどん変っていくのは致し方ないことであろう。

「夕」是夕阳下山时,「晩」是太阳已经下山四周天色暗下来,而「夜」是天完全黑了。在没有电的时代,要尽量趁天还亮着吃完饭,用「夕ごはん」比较吻合。但是在逐渐变成夜间生活的现代,我感觉「夜ごはん」倒比较符合。语言随着时代逐渐在变化,这是没有办法的。でも文化の香を感じる昔の言葉、例えば「筆箱」などにはまだまだ頑張って、「筆」など使わなくなっても「言葉」として何とか残ってもらいたいのだが„。

但是过去的语言能让人感受到文化的芳香,比如「筆箱」(文具盒)还要更努力,即使不再用「筆」了,也希望这个词能留下来„

N1文法每日详解:てやまない

本期语法:~てやまない 接续: 動て形+てやまない

意思:表带强烈的愿望和一种心情,“„„不已”、“非常„„”、“衷心地„„”

例子:

1、多くの困難にも負けず、努力を続けている彼女はすばらしい。私は彼女の成功を願ってやまない。【2004年真题】

尽管挫折不断但还是坚持努力的她让人佩服。我衷心希望她能够获得成功。

2、結婚する二人の今後の幸せを祈ってやみません。【2001年真题】(请翻译此句)

3、尊敬してやまない佐藤先生の講演会に行った。去参加了我很尊敬的佐藤老师的讲演会。

注意:

常与「祈る」、「期待する」、「願う」、「愛する」、「尊敬する」等动词一起使用。

2.日语近义词区分 篇二

John I.Saeed在Sematics一书中将词与词之间的关系划分为同音异义(hymonymy),一词多义(polysemy),同义(syn onymy),反义(antonymy),上下义关系(hyponymy),部分—整体关系(meronymy),成员—集合关系(member-collection),份—集合关系(portion-mass)。反义关系又包括简单反义词(simple antonyms),等级反义词(gradable antonyms),对立反义词(reverse),反向反义词(converses),同类姊妹对(taxonomic sister)。

简单反义关系又称互补反义关系。在简单反义关系中,对一个词的肯定意味着对与之构成简单反义关系的另一词的否定。例如:dead/alive (of e.g.animals);pass/fail (a test);hit/miss (a target);present/absent;male/female;innocent/guilty。以dead/alive为例可以看出,任何一种有生命的物体,它的存在状态只有生或死两种,所以,对“死”(dead)的肯定即为对“生”(alive)的否定。

在等级反义关系中,对一词的肯定并不意味着对与之构成等级反义关系的另一词的否定,例如:rich/poor;fast/slow;young/old;beautiful/ugly。等级反义关系有两个主要特征:(1)在等级反义关系中,两个反义词有中间项,如:hot (warm, tepid, cool) cold,对于等级反义词hot和cold,中间项warm, tepid, cool是存在的,这就说明一种物体可以处于既不热(hot)也不凉(cold)的状态。(2)等级反义词的词义通常是相对而言的,例如a thick pencil从一般意义上来讲要比a thin girl细得多,因此thick/thin的词义都是具有相对意义的。

二、临界点———区分简单反义词和等级反义词的关键

从定义上来看,简单反义词与等级反义词的差异一目了然,在实际运用中,大多数的简单反义词与等级反义词也是比较容易区分的(如dead/alive;hot/cold),但也不可否认,有一部分反义词不容易区分(如clean/dirty;temporary/permanent;messy/neat)。笔者认为,临界点的存在与否,是判定一对反义词属于简单反义词还是等级反义词的关键所在。

1. 简单反义关系

在简单反义关系中,临界点是存在的。我们可以将简单反义关系用相切的两个圆来表示(如图1),此时我们定义,两圆唯一的切点只属于右圆,而切点在左圆的位置为一个空心点。这时我们可以将该切点定义为临界点(critical point)。在此我们以fail/pass (a test)和alive/dead两对简单反义词为例来阐述临界点。首先,我们以百分制为例来分析简单反义词pass/fail (a test),左圆圆上及圆内的点代表不及格(fail)的状态,而右圆圆上及圆内的点代表及格(pass)的状态,此时及格分60分便是两圆切点,即临界点。左圆的点可以无限趋近于切点,但是永远不可能到达切点,因为一旦到达临界点,就不再属于左圆,而是属于右圆。正如不及格的状态可以有0分,20分,50分,59.9分,59.999999……分,但是永远不可能到达60分,因为一旦到达60分,便脱离左圆,属于右圆———及格的界面了。再看第二对反义词alive/dead,左圆圆上及圆内的点代表活着(alive)的状态,右圆圆上及圆内的点代表死亡(dead)的状态,而心脏停止跳动的那一瞬间便是两圆切点,即临界点。左圆的点无限趋近于切点(临界点),即任何有生命的物体从获得生命那一刻起,就开始向死亡趋近;左圆的点虽然无限趋近于切点,却无法到达切点。因为一旦到达切点,即到达心脏停止心跳的那一瞬间,就不再属于左圆,而是属于右圆,属于死亡(dead)的界面了。

由此我们可以得知,临界点是划分两种截然不同的界面的一个关键点,并且该点只属于其中一个界面。在简单反义关系中,存在这样一个临界点,将两种截然不同的反义状态区分开来,并且该临界点只属于其中的一种状态。

在简单反义关系中,临界点分为两种情况。⑴自然属性的临界点。例如dead/alive;open/shut (of a door);absent/present;on/off (of a light)等,临界点都是自然属性临界点,这类简单反义词的临界点是自然存在的,不需要人为规定,同时也不以人的意志为转移。对于dead/alive,心脏停止跳动的那一瞬间,就是dead和alive的临界点,在心脏跳动时的所有状态,都属于alive这个圆的界面,一旦到达临界点———心脏停止跳动的一瞬间,就脱离了alive的界面,进入dead的界面,停止跳动的这一瞬间,也属于dead的界面。这个临界点是不需要人为规定的,是自然存在的。对于open/shut,关门时门与门边接触的一瞬间,就是open/shut两种状态的临界点,没有到达这个点之前,门处于open的状态,而一旦到达这个点,就属于shut的状态了。这个点,也是自然存在的,不需要人为规定。⑵人为规定的临界点。例如pass/fail (of a test), single/married,临界点便是人为规定临界点。以pass/fail为例,在百分制的考试中,60分是及格分临界点,在150分满分值的考试中,90分就是及格分临界点了。在未到达60分或90分之前,都属于不及格(fail)的界面,而一旦到达临界点60分或90分,则进入另一个界面,即及格(pass)界面;但是对于不同满分值的考试,临界点的确定也是不同的,体现了其人为规定性。再如sigle/married,对于中国的现代人而言,从法律程序上来看,领取结婚证书的那一瞬间,便是由未婚(single)到已婚(married)的临界点。而对于中国古代古代人而言,创制于西周时期的“六礼”(纳采,问名,纳吉,纳征,请期,亲迎)才是具有法律约束力的礼仪规范,如若“六礼”不齐,则婚姻的效力会受到质疑,所以,“六礼”的完成,则是古代中国人sigle/married的临界点。而各个国家的婚姻法制又各有差异,所以对于不同的群体,sigle/married临界点也是不同的。相对于自然属性的临界点而言,人为规定的临界点稳定性相对差一些,但是它依然可以被一定范围的社会群体所接受,有约定俗成的特性,在时间上也具有相对的稳定性,所以仍然可以成为区分简单反义关系两种反义状态的临界点。

2. 等级反义关系

在等级反义关系中,不存在临界点。我们可以将等级反义关系用一条向两端无限延长的直线来表示(如图2),等级反义关系中所有的状态都可以用这条直线上的点来表示。我们可以看出,在等级反义词hot/cold之间不仅有中间项warm, tepid, cool,还有其他无数的中间项,而在hot和cold两侧,也可以有无数的点来表示程度强于hot或者弱于cold的状态,而这些中间项或两侧项数量的多少,取决于一种语言中对于这种状态进行描述的词汇量。比如爱斯基摩人对于“冷”这种状态的描述,词汇量通常要多于赤道周围的地区,反之,赤道周围地区对于“热”状态的描述词汇,也通常会多于极圈周围的地区。另外,随着语言自身的发展与变化,随着国与国之间语言词汇的渗透与融合,各种语言的词汇量也在不断变化着,这种现象也能导致等级反义词中间项或两侧项的数量发生变化。

对于等级反义词而言,无论这条直线上的点有多少,永远不会存在一个临界点。如反义词hot/cold,不存在一个临界点去彻底区分开hot和cold,我们不能说温度超过多少度就是hot,低于多少度就是cold。再如rich/poor,我们没有一个公认的标准去区分这两种状态,不能说资产超过10万或100万或100万就是rich,低于这个标准就是poor。这是因为在等级反义关系中,这条直线上所有的点都是在一个界面内,它们只是描述同一种界面中不同程度的状态,而没有界面与界面的区分,如young/old是用来描述年龄的状态,hot/cold描述气温状态,它们并没有质的区别,只是量的差异;而临界点是用于区分两种不同质的界面,体现质的差别。所以在等级反义关系中,不存在临界点。

至此,我们便可以轻松地区分出clean/dirty, messy/neat, temporary/permanent属于哪一类反义关系了。对于这三对反义词,我们都没有一个自然的或是约定俗称的临界点去区分这两种反义状态,例如我们不能说一间屋内有多少克灰尘是dirty,没有多少克灰尘就是clean;同样的道理,我们也不能规定低于多少分钟就是temporary,超过多少分钟就是permanent。所以,这三对反义词都属于等级反义词。

三、结语

归根结底,之所以简单反义关系中存在临界点,而等级反义关系中不存在临界点,原因在于:简单反义关系是对于一个事件的两个界面的描述,两个界面非此即彼,是质的差异;而这两个界面唯一的切点就是它们的临界点,并且临界点只属于其中的一个界面。等级反义关系则是对同一个界面中不同程度的状态的描述,只有量的区别,没有质的差异。有无临界点存在,是简单反义关系与等级反义关系的一个本质的区别。因此,对于比较难以区分属于哪一类反义关系的反义词,我们可以试着去找它们的临界点,一般来说,如果能够找到临界点(自然的或约定俗成的),就属于简单反义关系;反之,如果找不到临界点,就属于等级反义关系。因此,笔者认为,临界点的判定,是区分简单反义关系和等级反义关系一个比较有效的方法。

摘要:文章基于英语语义学中的简单反义词和等级反义词有时难以区分这一问题, 通过对简单反义关系和等级反义关系的分析与对比, 提出一个新的概念——临界点。文章认为, 区分简单反义词和等级反义词的一个关键, 在于是否存在临界点。通过对临界点这一概念进行定义, 分类阐述, 并通过图示和例证的方法, 文章对于如何运用临界点去区分简单反义词和等级反义词进行了进一步的阐释, 最终得出结论:临界点是区分简单反义词和等级反义词的一个有效方法。

关键词:简单反义词,等级反义词,临界点

参考文献

[1]胡壮麟.语言学教程[M].北京:北京大学出版社, 2006.

[2]戴炜栋, 何兆熊.新编简明英语语言学教程[M].上海:上海外语教育出版社, 2002.

[3]徐志民.欧美语义学导论[M].上海:复旦大学出版社, 2008.

[4]李福印.语义学概论[M].北京:北京大学出版社, 2006.

[5]伍谦光.语义学导论[M].长沙:湖南教育出版社, 1991.

3.浅析日语同义词的教学方式 篇三

关键词:同义词 教学准备 教学方式 暗示

一、引言

由于日本人的文化生活比较复杂,日语本身也利于新词汇的产生,所以造就了日语中丰富的词汇量。因此,在日语教学的过程中,会不可避免地出现大量的同义词。这时,如果不及时地进行讲解,部分学习者便会依照自己的感觉随意去使用这些词,从而造成误差。然而,同义词的区分也并不是那么容易的,特别是到了日语中上级的教学时,往往教师也需要参考大量文献才能正确地把握词语间的细微差别。那么如何把这些信息最有效地传达给学习者呢?这是所有日语教师都需要思考的问题。

同义词的种类有很多。有的词在感情色彩上不同,例如“ゆっくり”和“のろのろ”,前者是中性的,后者含有贬义;有的词在轻重程度上存在不同,例如“腹が立つ”和“怒る”,前者有可能是在心里生着闷气,后者明显是表现在外的;有的词根据使用场合不同而不同,例如“あした”和“みょうにち”,前者是日常用语,后者非常正式;有的词适用对象不同,例如“やる”和“差し上げる”,前者用于上对下的场合,后者则恰好相反。当在教学过程中遇到这些词时,我们若只是简单地讲解意思是不行的。当然,如果只是把词语间的各种区别罗列出来也是不足的,因为考虑到有些同义词相对复杂,一味地罗列有可能会让学生觉得枯燥乏味,记忆起来也较吃力。因此,教师时不时的举出一些具体的例子,先不作任何讲解,而是让学生自己去思考、总结出规律,也不失为一个有效的手段。

二、日语同义词的教学方式-以“近づく”和“近寄る”为例

藤原雅宪(1997)为了让同义词教学有质的飞跃,以“広がる”和“広まる”为例,具体地阐述了同义词的指导方法。本文想以此为参考,对“近づく”和“近寄る”的指导方式进行具体说明。关于这两词的例文及其解释说明大都基于柴田武(1982)的研究,指导对象设定为日语上级学习者。

教学步骤一:教学导入。请学习者首先尝试分析以下两句话(考虑到国内部分大学把《日语》5-8册作为《新编日语》1-4册的衔接教材,本文选择从这两套书中拿出两例进行教学导入):

“人々は春が近づくと、桜の咲く日を予測したり、友達とお花見に行く日を約束したりします。”(《新编日语》2)

“ハチは自分の巣の周りを、かまわずあちらこちらと大またに歩くゾウムシを見つけ、近寄り、もどり、何度かゾウムシの背中の上を乗りこえた。”(《日语》5)

教学步骤二:1 a ○人(犬?猫)が近づいてきた。

b ○人(犬?猫)が近寄ってきた。

2 a ○夏が近づく。

b ×夏が近寄る。

教學准备:1的主语为生物,2的主语为非生物。

教学方式:这里要求学习者首先思考主语的不同,总结出“近づく”和“近寄る”的第一条区别。到这里,学习者自然可以理解教材中出现的两句话的区别了。

教学步骤三:3 a○足音が近づいてきた。

b×足音が近寄ってきた。

教学准备:尽管脚步声来自于生物,这里却只能使用“近づく”。 柴田(1982)解释到要把这里的脚步声看作是一种物理现象,因为脚步声的主人也完全没有意识到听者的存在。换而言之,“近づく”只是一种客观描写,而“近寄る”必须要清楚地感受到接近者的意图及其要接近的目标时方能使用。

教学方式:这里只是简单给出“物理现象”以及“动作主体的意志”两项暗示,引导学习者感受“足音が近づいてきた”到底给人以什么样的印象,进而得出“近づく”和“近寄る”的第二条区别。

教学步骤四:4 a ○汽車が近づいてきた。

b ○汽車が近寄ってきた。

教学准备:由于开动汽车的是人,读者能感到人的意志,所以可以使用“近寄る”。

教学方式:要求学习者结合教学步骤二、三思考,为何汽车不是生物,却能够使用“近寄る”。

教学步骤五:5 a ○やっと近づいてみたら、ただの石ころだった。

b ?やっと近寄ってみたら、ただの石ころだった。

教学准备:尽管两词都是“接近”,但侧重点有所不同。柴田(1982)指出“近づく”的重点在接近这个动作结束时,而“近寄る”侧重于接近的过程。

教学方式:首先让学习者思考“やっと”这个词,带领他们领悟到“やっと”只能与终结性的动词一起使用。然后再让学习者确立“やっと”与“近づく”、“近寄る”的关系,得出在例句5b中使用“近寄る”不合适的原因。

教学步骤六:6 a ○後ろの車がだんだん近づいてきた(200メートルぐらい)。

b ?後ろの車がだんだん近寄ってきた(200メートルぐらい)。

7 ○(二人並んで、ベンチに座っている場合)もっと近寄りなさい。

教学准备:柴田(1982)提到与目标距离较远时,可以说成“だんだん近づいてきた”,但使用“だんだん近寄ってきた”却不太恰当。

教学方式:这里只把例句列出来,提醒学习者要把焦点放在距离上,即汽车到目标的距离与坐在板凳上的两人的距离有何不同,继而让他们总结出两词的又一区别。总结完毕后,再向学习者说明由例句7、8我们可以得出“近づく”给人的感觉是目标物很清晰,而“近寄る”的目标却比较模糊(比如让坐在板凳上的两人互相靠拢,但这里我们并不知道是要靠拢到什么程度),这是由于使用“近寄る”的时候,我们在心理上能感到一种“个人领域”,所谓的“个人领域”是不容外界侵入的。

教学步骤七:8 a○お近づきの印です。

b×お近寄りの印です。

教学准备:柴田(1982)提到由以上“个人领域”的分析可以得出“お近づきの印です”要表达的是想更加亲近对方的思想,它是一种很客观的寒暄方式,而在这里若是是用了“近寄る”,听起来就好像是想侵入对方私人领域,反而弄巧成拙。

教学方式:这里首先向学习者暗示“个人领域”这一概念,接着提醒他们日本是一种“間”文化,当“間”文化表现在人际交往方面时,它要求人与人之间要保持一定的距离才算是最完美的。在以上说明完毕后,让学习者自己分析不能使用“近寄る”的原因。

教学步骤八:9a ○近づきがたい。

b ○近寄りがたい。

教学方式:结合教学步骤三和七,让学习者分析以上两句话的区别。

当然,以上的教学步骤是适合日语上级学习者的。倘若只是初级,就只用讲解一小部分,如果一次性灌输了这么多东西,学习者反而容易混乱,适得其反。

三、教学过程中需注意的几点

课堂的时间都是有限的,以上的教学方式或许可以保证教学效果,但是却要花费大量时间,因此,本文建议只有重要的单词才采取这样的讲解方式。另外,学生们的反应也不是全部能预计到的,很有可能会出现一些偏差,这也给授课增添了一些困难,要求教师考虑的更加周全。

本文想把以下的两点作为今后的研究方向:1.如何提高效率,在有限的时间内把信息最有效的传达给学习者。2.在具体实施了数次这样的教学方式后,总结出学习者的普遍思考模式以减少偏差。

参考文献:

[1]藤原雅憲.籾山洋介.上級日本語教育の方法[M].凡人社,1997.

[2]柴田武.ことばの意味1[M] .平凡社,1981.

[3]木村宗男.日本語教授法の諸問題[M].文化庁,1979.

[4]高木きよ子.水谷信子.中上級の教授法[M].国立国語研究所,1980.

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